~まず、はじめに~
CDIメディカルが持つ「組織の風土・価値観」を皆様に少しでも感じて頂く機会になればという思いで始まった「CDIメディカル サポーターシリーズ」。第2回目のゲストは、遠山愼一先生です。
遠山愼一先生は、神奈川県立循環器呼吸器病センター所長、横浜船員保険病院(現(独)地域医療推進機構横浜保土ヶ谷中央病院)病院長などを歴任され、現在は介護老人保健施設フォーシーズンズヴィラいろどりの施設長を務めておられます。弊社CDIメディカルの最高執行責任者の宇賀は、15年近くに亘って大変お世話になっている、言わば恩師の様な先生でもございます。
「循環器医療を通じての組織・人」をテーマに弊社CDIメディカルの宇賀との対談は、循環器医療に関する話題からそうした二人の関係性までもが垣間見える幅広い対談内容となっています。どうぞお楽しみください。
【遠山愼一氏 略歴】
横浜市立大学医学部卒
神奈川県立循環器呼吸器病センター所長、横浜船員保険病院院長、横浜船員保険病院名誉院長、介護老人保健施設フォーシーズンズヴィラいろどり施設長、独立行政法人医薬品医療機器総合機構専門委員、神奈川県労働局労災基準局労災委員(心臓部会長)、神奈川県社会保険診療報酬支払基金 審査委員(循環器専門委員)横浜市総合リハビリテーションセンター更正医療審査委員(心、血管疾患)、神奈川県病院協会常任理事、横浜市病院協会副会長、横浜市立大学医学部臨床教授、横浜市立大学医学部同窓会倶進会会長、横浜市立大学医学部第2内科同門会会長
【宇賀慎一郎 略歴】
関西外国語大学外国語学部卒、青山学院大学大学院国際マネジメント研究科修了。
ボストンサイエンティフィックジャパン株式会社、ジョンソン・エンド・ジョンソン株式会社を経て、2006年CDIメディカルに参画。現在、CDIメディカル最高執行責任者COO。
医療機器メーカーでのキャリアを皮切りにこれまで一貫して医療分野のビジネスに関わり続けている。CDIメディカルへの参画後は、医療や介護分野、更には ヘルスケア分野のコンサルティングを幅広く手掛けている。また、大学病院や自治体病院、民間病院といった医療機関への経営改善や産学連携等においても高い 成果を上げている。特に近年はこれまでに培った医療機関とのネットワークを強みに、異業種企業と医療機関との橋渡しや新規参入支援のコンサルティングを多数手掛け、現場ニーズの明確化や製品化の実現等を通じてコンサルティング成果を積重ねている。
構成
(1)~循環器を選んだ理由~
(2)~PCIという新市場を立ち上げたモチベーション~
(3)~PCIが循環器学会にもたらしたもの~
(4)~医師の専門性と人間性~
(5)~プロフェッショナル組織の立ち上げ~
~循環器を選んだ理由~
宇賀:遠山先生は、そもそも何故、循環器を選ばれたのでしょうか?
遠山: 我々の学生時代は日本が正に急速に発展を遂げた時期で、生活の欧米化に伴い循環器疾患、特に虚血性心疾患が増加することが予測されていたのが理由のひとつで、もう一つは心電図に興味を持ったことです。その切掛けは、医学部3年生の時、私の田舎は群馬県なのですが、群馬県立前橋病院(現在の群馬県立循環器病センター)院長の渡辺先生から2週間心電図の読み方をご教授戴いたことです。このことが、自分の人生を決めることになるとは夢にも思いませんでしたが、目の前が急に明るくなったことは、今でも鮮明に記憶しています。
~PCIという新市場を立ち上げたモチベーション~
宇賀:遠山先生は、循環器もまだこれからという時ですとか、神奈川県もこれからという、言わば成熟した市場よりも、どうなるか分からない市場の立ち上げをされてこられたという感があります。そういうパワー、モチベーションの源泉には何があるのでしょうか?
遠山:実は、卒業後の内科志望者は内科研修医として横浜市大の二つの内科を1年単位でローテーションしていました。その間は、内科の1分野に研修科目を絞るのではなくて、内科全般を、3~6ヶ月単位でローテーションしていました。現在の研修医制度と酷似する制度で、研修4年目には入局し、専門分野を学び始めました。じぶんが30歳の頃ですから、40年以上前のことです。その頃、ようやく、弁膜症を主体とする心臓カテーテル検査に冠動脈造影検査が入ってきたのです。当時、米国の循環器病学の最先端知識を携えて帰国され、我々の所属する横浜市大第2内科の非常勤講師になられた博定先生(東大第1内科)の最初の冠動脈造影を目の辺りにした時の感動は筆舌に尽くし難いものでした。これが自分でできるようになったら、もう循環器医として完成だ!と思った位です。もともと想像力に乏しく、今のPCI等は夢にだに想像していませんでしたから。
宇賀:博先生は冠動脈造影を当時アメリカでされていたのですか。
遠山:そうです。博先生のおかげで、市大第2内科は、比較的早い時期の冠動脈造影を導入することができたと記憶しています。その後、昭和58年(38歳)に大学を離れ、神奈川県立長浜療養所(当時は、結核と呼吸器疾病の専門病院で、昭和63年に循環器内科と心臓血管外科を併設し、循環期呼吸器病センターに改称)に赴任しました。最初のPTCAの直前には安城更生病院での延吉正清先生のライブを眼を皿のようにして観ていました。
初期のPTCAの再狭窄率は、40%を越えており、PTCA直後の急性閉塞によりACバイパスになる場合も少なくなくありませんでしたが、操作の煩雑性もありましたが、これからは、この治療では、という漠然ではありましたが、「時代の風」を感じ取りました。私をPTCAに駆り立てたのは、まさにこの風の強さであったと思います。PTCAの普及に連れ、各地でライブが開催され、技術及び知識の情報が施設間で頻繁に交わされるようになって、施設感の壁が意識されなくなり、大学間の壁もいつしか、消失しました。TCAは在野の医療機関で進化を遂げたことが、大きな特徴でもあります。
~PCIが循環器学会にもたらしたもの~
宇賀:遠山先生が循環器科医になられた背景や神奈川県の循環器医療、特にPCIの分野の背景には色々なことがあったのですね。
遠山:もともとPTCAは大学病院以外の市中病院で進化した治療法でしたが、小倉記念病院(延吉正清先生)が、先ずそのメッカとして、この技術の発展と普及に寄与したといえます。飛ぶ鳥を落とす勢いで、この治療法が脚光を浴びたのです。PTCAが相当普及してから大学医学部を中心とした循環器学会がこの技術に興味を示し始めたといえます。現在でも、市中病院と大学病院との間に技術、治療成績に較差のないのが、PCIの特徴と言えます。
当然、大学においても、情報交換の必要性から市中病院をも交えた横の交流が盛んになり、教授を頂点とした大学医学部のいわゆるヒエラルキーに変化をもたらしたと言えるかもしれません。神奈川県では、5施設の先生方が集まって神奈川PTCA研究会が立ち上がりました。多分、どの施設も症例数は、10例以下でした。
この会の設立主旨は、「神奈川県の患者さんは、神奈川県の医師が責任を持って治療をする」「PTCAの患者さんは多摩川を渡らせない」ということでした。その結果、東海大学、北里大学、聖マリアンナ大学、横浜市立大学の4大学もはじめから参加し、多くの市中病院との交流は、技術のみではなく、医師のヒトとしての交流も抜群でした。皆が、家族という感覚で、お互いが接していました。
PTCAの黎明期は、日本中のインターベンショニストが、ファミリーでした。楽しい時代でした。
更に、当時既にその手技が高く評価されていた齋藤 滋先生が、この会に加わり、先生が主催する鎌倉ライブデモンストレーションを神奈川PTCA 研究会が全面的に支援する体制を確立したことで、施設間の交流は、更に進化しました。最近は、それぞれの施設が成熟し、さらに進化しています。齋藤 滋先生の影響もあり、TRIの普及率は、日本で一番高いのが、仲良しの証明でもあります。
~医師の専門性と人間性~
宇賀:遠山先生も部下の先生方もこれだけ専門的なところを追求しつつも、患者さんありきで、病ではなく患者さんを見ないとダメだと仰っていたと思います。凄く心に残っているのですが、そういったバランス感覚はどう教育をされていたのでしょうか?
遠山:専門性を追求していくと病態への認識は深くなるに従い、「木を見て森を見ず」という傾向に陥りやすくなります。即ち、病気に関心を持つが、その病で苦しんでいるヒトである患者さんが二の次となる傾向があるのです。
病態を的確に把握し、「鬼手仏心」ではありませんが、病に厳しく立ち向かう「鬼手」は必要です。しかし、その患者さんには「自分も頑張ろう」という勇気が湧き出るような、心の応援「仏心」もすべきでしょう。
病めるヒトの心の座標軸は、健康人の心の座標軸とは、大きな隔たりのあることを常に肝に銘じて患者さんに接するべきです。患者さんにとっては自分の主治医が、技術も知識も十分に持っているのは、当たり前なのです。患者さんが主治医に求めているものは、温かい心です。と私は、以前から考えていましたが、本年4月4日日本医師会で開催されましたダライ・ラマ法王のご講演の中で、腹部手術を受けられた経験のある法王が、いみじくも言われました。
「患者さんが求めているのは心です」と、胸を指差して言われました。
~プロフェッショナル組織の立ち上げ~
宇賀:先生は昨今の機能分化をどう思われますか?仕組みのうえでは理解できるのですが、機能分化が進むと急性期病院の先生は、なかなか患者さんとゆっくり接する時間や機会が無く、効率性を追求せざるを得ない面が強くなるのではないでしょうか?
遠山:医学、医療の専門性がここまで深まりますと、細分化は当然の帰結です。多くの専門医のいる都市の総合病院では、ご自分の専門分野のみの患者さんを診療すればよろしいのですが、それでも、夜間の当直、地方での診療ではそうはいかないはずです。
専門医といえども、常にご自分の中で、「統合と分化」を意識すべきです。つまり、患者さんは医師の専門性に合わせて受診するわけではありませんから、当然、総合医的発想も必要なはずです。確かに、急性期病院では、DPCの費用対効果もあり、以前と比較すると、入院期間が大幅に短縮されています。時間的に患者さんにゆっくり接する時間はありません。しかし、検査、治療等の説明時間が短くても、その医師の工夫で、心を通わすことは、可能なはずです。医師の心がけしだいで、患者さんは、安心もしますし、不安にもなります。
~プロフェッショナル組織の立ち上げ~
宇賀:私たちの会社は、まだまだベンチャーです。これからも引続き成長していきたいと考えています。遠山先生は、これまでいろいろな場面で組織を立ち上げてこられました。神奈川県立循環器呼吸器病センターの立上げ、神奈川県下のPCI分野の立上げ、等々あると思います。
こういう大きな組織の立ち上げではどの様なご苦労がありましたでしょうか?特にプロフェッショナルな医師や看護師等のマネジメントは、難しい部分が多いと思います。いかがでしょうか?
遠山:神奈川県立循環器呼吸器病センター(循呼センター)の前身は、昭和29年に東洋一のサナトリウムとして設立された神奈川県立長浜療養所(結核療養所)です。ですから、私が赴任した時は、結核は当然として、広く呼吸器疾患を扱っていました。当時の長洲神奈川県知事は、動脈硬化性疾患の増加を見越して、この結核療養所を最新の循環器病と呼吸器病センターに衣替えを目論んだのです。
とは言え、初めから医療機器、医療スタッフを含め、一気に専門病院に転じるには、あまりにもその体制が貧弱であり、変換するためのスピード感も乏しいものでした。しかし、上層部では、それなりの話し合いが神奈川県サイドとはされていたようです。院内で一生懸命に働いていた我々には、逐一報告はされていませんでした。
しかし自分自身も循環器科部長となり、3次までの増改築案に関わるようになってからは、神奈川県行政の理解と協力のおかげで、すべての設備は質量共に満足のいくものとなりました。特にこの目的完遂のために努力を惜しみなく発揮してくれた事務職の方々には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。我々はこの間、若さに任せて、仕事をしまくりましたが、事務職の方々も病院を完成させるという目的に向かって、共に頑張るという力が湧いていたのだと思います。変な話、自分たちが公務員であることを忘れていたような働きぶりでした。またそのような気概をもった職員を病院に送ってくれた神奈川県にも感謝です。
看護師は、従来結核療養所でしたので、皆がゆったりとして、優しく、スピード感に問題はありましたが、その特性を持って、新しい医療に適応してくれたことには、感謝しています。今にして想うと、成功の要因は、達成目標を明らかにして、医師が皆の先頭を疾走したこと、それにつられてか独自の意欲からか、その他の職員も同時の走り出した、ということであったようです。
この黎明期の苦楽を共にした仲間でないと、その当時のときめき感は甦らないはずです。私自身、腰掛のつもりで気楽に38歳で大学から出かけた循呼センター(神奈川県立循環器呼吸器病センター)に26年間も務め64歳で退職しましたが、自分の一生を循呼センターに掛けるとは、夢にだに考えていませんでした。
しかし、楽しい仲間達と自分の人生を掛ける価値は十分にありました。人生とは往々にしてこのような流れになるようです。組織の立ち上げの答えにはなっていませんが、神奈川PTCA研究会もそうでしたが、信頼できる楽しい仲間となら何とかなる、という楽観的な思考が新たなものを生み出せるということではないでしょうか。どのような病院や組織にしたいのか、という漠然とした概念はありましたが、それほどの先見性と想像力は持ち合わせていませんでした。ただ働き甲斐のある循環器と呼吸器疾患診療体制を構築すること、専門分野で日本の先端医療を担うことを志しました。
「ゼロ」からの出発はやり甲斐のあるものでした。循環器領域での国内の先端を狙うために新しい治療のPTCA、画期的な検査のIVUSをいち早く導入できたのは、これに心血を注いでくれた後輩の先生方の努力の賜物でした。ということで、今でも年に1回、この仲間たちと温泉旅行をしています。勿論、経費は後輩の先生方持ちです。恩ある先輩に感謝の気持ちを後輩が形にするのは、当然のことですからね。(笑)
26年間、循呼センターという県立病院に勤務しましたが、多くの職員、心臓外科医を含めた多くの仲間達と過ごせたことに心からの感謝あるのみです。より高度な医療を患者さんに提供できたことに、今でも感謝しています。しかし、県立病院であることで、県民税からの補助金を頂き、病院を運営していましたその責任に関しては、忸怩たる思いでいます。
宇賀:優秀で素晴らしい事務の方々がいたというのが大きかったのですね。
遠山:時と人を同時に得ることが、重要な要素となります。組織は、正にその時に好循環に回り出します。
宇賀:病院の悩みで、いい事務の方がいないかとか、良い人がいないだろうかという相談は度々頂戴します。何故そこまで、前例のないことをやろうとされたのか。すごく異質だと思うのですが、その方々の人間性なのでしょうか。もしくは、何か動機づけというものがあったのでしょうか。
遠山:事務職員が病院に着任した時、病院の医師が目標意識を持って、先頭を走っていたことが先ず彼らにとって、刺激的であったと思われます。しかし、それよりも大切だったのは、自ら意欲を持った事務職員が派遣されたことです。
宇賀:そう考えると、例えば、いい人がいないだろうか、いい事務がいないだろうかとかいう病院は、リクルート活動もさることながら、自分の病院に来た人や職員が何か刺激を受けるとか、ここで働きたいとか、この病院をもっと良くしたいと思わせるような雰囲気や風土、価値観を作っておくことの方が大事なのでしょうね。
遠山:その通りだと思います。この部分が意欲をかき立てる核心的な要素だと思います。
宇賀:私たちの会社にしても面接に来て下さった方々が、ここで働きたいって思う会社にしないといけませんね。
遠山:結局行き着くところは、「ヒト」ということになります。
宇賀:はい、引続き魅力的な会社、組織をつくっていきますので、これからも応援をよろしくお願いいたします。 今日はありがとうございました。
(終)